昭和42年6月17日    朝の御理解


 最近にはじまったことじゃないですけれども、これは金光教だけではありませんが、教祖が教えられました、又は宗祖が残しておられる、信心記録といったようなものが、教学をされる、それを学問の上に成り立つように研究をするという訳なんです。
 教学するということを申します。その教学するという事は、本当にその教えを深めることでございますから、信心も深くなり、ですから信心が深くなればおかげも又深い深遠なもの、いわゆるそのおかげも、矢張り進展していかなければならんのです。ね、教えを深く分かるのでございますから、而も、それが学問の上においても分かっていこうというので御座いますから、おかげが段々分かれば分かる程、おかげの方もそれだけ大きく、広く深くなっていかなきゃならん。ところがその教学をいわば先行されるというか、専門になさる方達は、非常にこのおかげがこの散漫になってくる。いわゆる生き生きとしたおかげが現れてこなくなってくる。そういう傾向があるんです。
先日もある教会の先生が、ここへ見えましてから、ここのテ―プを借っていってございました。何ヵ月ぶりに見えましてから、実はその一巻のテ―プをですね、裏表しっかり聞かれて、これはもう正しく大坪教学だという訳なんです。一巻のまあ、ですから二日分なら二日分位は、入っとりますでしょうか、その御理解をですね頂いてみて、それを矢張り研究される、教祖の御教えのどこのところにこの、説いてられるところが匹敵するのか、それを勉強さして頂いたら、今まで私共が教学して教学し得なかった、いわゆる大坪的なというか、合楽流の教祖の信心の受け取り方、といったようなものをその中から出てきた、ですからこれは、他所には真似の出来ない、いわゆる大坪の教学だと云われる訳です。
 大坪教学だという風に、これは日田の堀尾先生の仰られたり、書かれたりしたものを、堀尾教学と申しました。
 高橋正雄先生あたりはもう教学の大家でございましたが、いわゆる高橋イズムと申します、ね、高橋教学、お互い信心さして頂くのでございますし、又おかげを頂いてから勉強すりゃ勉強できるひとつの頭脳というか、少しばかりでも学問を身につけとるのでございますから、矢張り教学していかなければいけません。但しその教学が、教学した為に、おかげの方が散漫になるようなことであってはならないという事。
最近の信心は、その教学に基づいたものでないと、一般にですね、低級視する向きがあるんです。ただご利益とおかげという事だけを云うだけではなくてです、こういう道理に基づいて、こういうひとつの天地の法則というか、真理に基づいてのおかげが立脚しておらなければならぬ、そういう風に申しますとね、教学というのは、大変理屈っぽくなるんですけれど、大坪教学は決して理屈っぽくないですね。皆さんは、日々、だから大坪教学をなさっておられる訳なんです。ですから皆さんの表現されることは、だから本当に私の信心を納得なさらないとですね、大坪教学は分からん。だから他所の信者に聞かせても、それは分からない場合がありましょう、例えばお夢ひとつの解釈でも、実にそれは教学的なんです、けれども教学的だけれども、その何と申しますか、他所の人には通じない、なんかまるきり夢物語りのようなことになってくるのです。
例えば天地書附を教学する、生神金光大神、天地金乃神一心に願え、おかげは和賀心にあり、おかげと、何故おかげというのを平仮名で書いてあるのか、おかげと書いてある、もうこういう事なんかは、その事を今度のテ―プで聞いとられるんですね。全然人が教学しようとするところを、もう全然見落としとるところを椛目で教学しておる。そのおかげに対するところの説明がその素晴らしさにもう驚いてしまっておられる。それを何故とくに考えるのか、考えたことが無かった。教祖の神様はたいした学者ではなかったけれども、当時としては相当の、矢張り博識の方であった。いたるところに、その漢字を使い、平仮名を使い、又は片仮名を使うてそういう知っておる学問を、それこそもうフルに駆使して、教えを表現しておられる、知っとられるだけのその知識を、あの教えの中には折り込んである、例えばこれは私のことも云えるですね、私が少しばかり、小学校なら小学校の学問だけを身につけておるのですけれども、小学校で勉強したことをフルに私は使っておるです、
そういう教祖の神様が、何故そのおかげというのを漢字でお書きにならなかっただろうか、おかげと書いてある、而も和賀心にありという字なんかは、もうそれこそ、ま、云うなら合楽流にですよね、吾が心と書けようし、又は平仮名でわがこころと書いても良さそうなものを、わざわざ平和の和と賀正の賀と心とを使うておられる、何故だろうかと、まあここんところが皆んなが教学するところですよね、けどもおかげというあの言葉を教学する、いや何故かとすら考えたことが無かった、そしてそのおかげに対する見方は、心に受けていくもの、形に受けていくもの、様々その受けよう、とり方によって違うてくる。まあおかげの解釈は皆さん頂いとられますから、申しませんけれどもです、ね、このおかげひとつでも教学していったら成程素晴らしい、椛目の場合は答えが出てきて、おかげをそれこそ受けられるようになってくるんですよ、これは秋永先生が、もう申しましょうね、ついでに、皆さん忘れられとるかも知れんから。
 秋永先生がああして一年前に事故に遭われたときです、毎日毎日皆さんがもう、それこそ椛目の全体の方達が、秋永先生の為に総祈念をなさいましたですね、お取り次を頂いて毎日毎日お届けが御座いました。そういう時でした、あの久富繁雄さんとこの長男の、国雄さんが朝参りしてきておりました。丁度秋永先生の奥さん、文さんと子供達が二、三人でお礼に出て来とりました。椛目の時代ですね、それでそのどんな風に云うてですね、その奥さんに挨拶して良いか分からんのですよね、はあ、ほんにつまらんことでした。と云うか、大変でしたね、とか、どげん云うてから奥さんに挨拶をしようかと思うたけれど、それがはっきり出てこんもんですからね、御神前に出て一生懸命御祈念した。今秋永先生とこの奥さんが見えとりますが、どうせ顔を合わせんならんが、どういう風にご挨拶を申しましたらよろしゅう御座いましょうか、と云うて、あの御祈念をさして頂きよったらですね、おかげを頂かれましたと云えという事であった。この度は本当に大変なおかげを受けられましたですねえ、とそれだけでいいんだと神様は教えられたそうです、親子三人の者が、もうそれこそ死ぬか生きるかというような状態、もうここ何日かが山だと云われておるような重体の時に、お礼参拝をしておられるその奥さんに対してです、本当に今度はおかげを受けられましたですね、と、ですから金光教のおかげというのは、そんなに見易いんだという事なんです。
例えばもっとひどい事になってまいりましたらですね、久保山先生がああいう事故に遭われた時にです、もうあちらの奥さんにです、云うならもう本当に泣きの涙の時でもです、今度は大変なおかげを受けられましたね、とそれで済むのです、金光教の信心は。それでそこにあるおかげの内容ということが分かったらですね、も大変素晴らしい事なんです、それが自分自身のことじゃなくてまいりましてもです、ああ大変なことだと、困ったことだと、そりゃほんに苦しいことじゃろうというような事でもです、おかげを頂きまして有難う御座いましたと云うたら、おかげになるのだと、金光様の御信心は。それを信心しておるのにどうしてこのようなことが、信心しとったっちゃもうほんに神も仏もあるもんかと云うたら、結局それだけのことなんです。
 金光様の御信心はですね、そういう見易い、おかげというものはもう人生最大の悲しいこと、苦しいことに直面しておるその人に対してですら、おかげを頂かれました、って済むのだと。もう自分自身がそういうことになった時に、おかげを頂きまして有難う御座いますという、その云うようなこと、内容いわゆる私がいつも云うように神愛を分からして頂いて、そのことを通して神愛を分からしてもらう、そのことを通して神様の願いを分からしてもらう、御礼を分からしてもらう、その思いを分からしてもらうからおかげなんです。だからもういうなら馬鹿でも、ちょんでも分かるんだということなんです、金光様の御信心は、だから、わざわざ平仮名でおかげと、見易う見易う表現しておられる、ということ、そこんところの御理解を頂いてからもう、その素晴らしさに驚いてしもうた。
 これだけの素晴らしい表現、いわゆる大坪教学であることの意味が分かった。
今日はそこんところじゃないですね、おかげは和賀心にあり、そのおかげということの解釈、心に受けるおかげ、形の上に頂けるところのおかげ。
昨日おとといでしたか、初めての方がお参りをして見えて、三十あまりの御婦人の方でした。この丁度内山造園という大きな、そこにご主人が勤めておられる。自分はそこの下の方でなにか日用品やらお菓子やらを売っておられる訳です。先生私はあのお恥ずかしい話ですけれども、十四回自動車の試験を受けにまいりました、実地は出来ました、ところが学科が出来ません。もう本当に姑親から、もうあんたやめんの、ち、もうあんた十四へんも行ってから、あんたおかしかもん、もうあんたんごつ頭の悪かもんな出来る筈が無かがの、もうやめとかんの、と云われた、ならもう一辺やらせて下さい、もうこれぎりで委棄るもんな断念する、と云うてここへ見えたんです。今から行きよります、と本当にこれで十五回目に行かれる訳なんです。どうぞ先生もうお礼参りは必ずしますけん、出来ますごと、と云うてから、お願いに見えました。別にいろいろお話をしたって仕方ないから、御神米を下げてただ金光様、金光様とお唱え申し上げることだけを覚えて、なら試験に行きなさい。そして昨日、おととい試験に行かれた、その翌日又お礼に出て見えました。お礼に出て見えたけん、はあ出来なさったばいのと、こう思うた。それで三十名位受けておるうちに一番で出来た、十四回も受けてなかったのがね、一番に呼ばれるのが一番だそうですね、それを知らなかった、そして帰って主人に云うたら、あらお前は一番に出来とるじゃないか、と、それも帰って分かった、もうほんなこてやっぱ、合楽の金光様のおかげで、早うお礼に行けと云うて、そのお供え物から用意してくれた、お礼に出て見えた。もう嬉しゅうして嬉しゅうしてたまらん、もうそれで御神米をですね、まあ私は帰って頂いてから、もうすぐ天井の真ん中に貼った、天井の真ん中、お座敷の真上に、そしてそればもう見るたんびんに有難い、そしたら先生、今朝からああた、一年生に行きよります娘がですね、ピシャ―ッと襖ば閉めとるげなもん、ぐるっと、それで何しよるじゃろかと思うよったら、上を向いて一生懸命拝みるげなもん、娘が、あんた何んしよっとの、ち云うたら、今日は試験のあるけん拝みよる、と、本当におかげを受けたらですね、それがその夕べお父さんとお母さんと御飯頂きながら話しよっとば、聞いとってですよ。もうちょいと私がごたるとが、学科にでけてから而も三十人からのに一番で出来た。それをその一緒に御飯頂きよる一年生になる娘が聞きよってから、自分も学校に行きがけにゃお願いして行くという事、おかげを受けなければね、人はついちゃこんです。椛目の場合はもう本当に、ここにこれだけ居るが、先ず一人信心ちゃないでしょうたい、もうみんな家族をあげて信心しよんなさるでしょうが、今日ここに三十名の方が居りますが、三十名の方達がみんな家族をあげて信心しておるというのはね、確かにさっきから私が云うように、そのおかげを受けとるからなんです。みんな、だから馬鹿らしか、おかげいただかにゃ、信心せにゃばからしか、そしてからそのお礼に出て見えてから云われることが、今度はいよいよその試験がとおりましたから、自動車に乗らにゃなりません、だからひとつ交通安全のお札も下さい、そして私がちょっとしたお菓子屋をしよりますから、商売繁盛のお札も下さいと、もう商売繁盛のお札やら、その交通安全のお札やら別々にいろいろ有るごと思いよんなさるごたる風ですもんね、だから昨日ね、あなたが頂いて行かれたあの御神米、あれを拝まして頂くのですよ。だからそれは拝む対象としておられるのだから、まあ今日はこれが商売繁盛のお札じゃないけれど、自動車におまつりされるのもおあげしましょう、身に付けられるのも上げましょうと云うて、まああげたんですけれども、ね。今度月次祭には是非又主人とお礼に出たいから、何日と何日じゃろかと云うて帰られましたが、本当に椛目でですね、そして合楽でこうしておかげ受けられた方達が、本当に信心になられたら、もう本当にまたたく間にたくさんの信者が出来るでしょうけどね、私はそれをですね、又参ってこんならんという風に思わないですね。その時助かっておかげの実感があったら、それでいいと思うんです。
これも昨日でした、田主丸から参ってくる婦人がられます。もう一ヵ月位前から参って見えておる、もう本当におかげを受けるんですね、あのこんな人がありますね、素直なタイプの方でもですね、教えに対してだけは素直じゃないという人があります、先生はあげん云わっしゃるばってんから、というようなものが、日頃の素直さというか、善良さがですね、かえって邪魔するんです。この方はどんなにみても根性の悪そうな顔でしたですねもう能面のような感じでしたですね、表情が。ところがですね、お参りして来る度に表情が変わっていくんです。だから私昨日参ってきたから申しました。あなたはね、あなたは自分の心の中にね、もう素直に私の云うことを聞いて下さる、その素直な心を頂いておるという事を、あなたはお礼を申し上げねばいけませんよ、と云うたらですね、いいえ私は素直でいっちょんありません、と云う訳です。そん為主人との喧嘩がある、お客さんとの喧嘩がある、周囲のお友達との、いわばいざこざがいつも絶えない。ところが先生の仰ることだけは、私は本気で守ります、と云われる、だから私は参ってくるたんびに一言づつ教えるんですよね、実意丁寧とはこういうものだ、はあそんなら私どんが場合なんか、実意丁寧なんか全然じゃない、もうそれこそ実意丁寧とは、自分の心から横着、わがままを取り除かなければいけない、それを取り除いた心が実意丁寧神信心だということを聞かして頂いたら、今までの生活態度というものが、大変間違っておったことを分からして頂き、そしてですね、涙をぽろぽろ出してですね、あなたはその素直な心を頂いておるということを、神様にお礼申し上げねばいけませんよと言ったら、もうはじめて私のことをあのように素直と云うて頂いたと、ところで確かに教えにだけは素直なんです、いわゆる教えに忠実なんです。
 確かにそうですよ、本当にあの人は素直な人だと、とても良い人だ、仏様のような人じゃというてもですね、教えにだけは非常に自分流儀にやって、忠実にならない人があります。もう本当に私はお参りしてくるとが楽しみ、表情が変わってくるですもん。子供さんは三人おられますが、その三人の子供がですね、もう実におかげを受けていくんですね、主人までがおかげ受けていくんですね、自分の周囲の人達がおかげ受けていくんですね。もう第一お客さんが喜ばれるんですね。
最近新しくお参りしてくる二つのタイプ、おかげは和賀心にあり、だからですね、おかげということを精神の面にうけるおかげもおかげと申します。それに形が伴うてくる、金銭のお繰り合せのことは金銭のお繰り合せ、健康のおかげを頂いたら健康のおかげを頂くということもおかげ、けどもここではやっぱりおかげというのはですね、そこんところを私は、形の上に現れてくるおかげと、こう頂くべきだと思うですね。何故って次に和賀心と云うておられるんです、二つ云うとられるです、和賀心の方が魂の助かりのことなんです。おかげというのは形のことなんです。
 ここからが今日の教学なんですよね、皆さんが天地書付けを朝晩唱えておられます、ですからそういう意味合いにおいても分からにゃいけんのです。そうでしょうが、でなかったら おかげおかげと云うとるだけじゃもん、魂の助かりも、肉体の助かりもです、それを二つに分けておかげは和賀心と、こう二つにある、だからそのおかげのこと、様々な問題の解決のおかげを受けるということが、ひとつのおかげと云うならばです、和賀心というものは、魂の助かりだという事になるのです。理屈っぽくなりますかね、教学は兎に角やっぱり理屈っぽく聞えますけれども、ひとつも理屈じゃないです。和賀心、いわゆる和らぎ賀ぶ心ということ、和らぎ賀ぶ心が魂の助かりであり、おかげはいわゆる病気が治るということであり、金銭のお繰り合せを頂くということであり、人間問題の解決であり、様々な難儀というものから、いわゆる脱出していけれるおかげ、それをおかげと私は頂くべきだとこう思う。そして和らぎ賀ぶ心、これが魂の助かり、ここの二つのところがおかげ頂いていかなければならん、今私が新しくお参りをしてきた昨日、今日の御信者さんに対して二つの例を申しましたが、ひとつはおかげであり、ひとつは和賀心である。これが、二つが一つになった時に、合楽の信心はやめられんということに、なってくるのじゃないでしょうかね、ここんところがです、私共信心の内容として、頂いていかなければならないところだと、私は思うですね。
                        どうぞ